トークセッション『し乃美夜- SHINOBIYORU』(前半)
写真家 MIWAKATOH × パフォーマー・演出家 なかええみ
2017年11月5日(日)@浅草 ギャラリーHATCH
MIWA:では、パフォーマンスの作詞作曲をしてくださった、なかええみさんと一緒にトークショーをします。
なかえ:今回のコンセプトからでもよろしいですか?
「祈りの手の曼荼羅」の手は「祈る人の手」、どうやって撮影を?
MIWA:はい。
なかえ:「祈りの手の曼荼羅」は、2006年にレセプションを海外でなさっていますけれど、その時のご反応はどんな感じでしたか?
MIWA:海外の方は、何でも忌憚なく質問して下さるなって印象があって。多分、アートが身近というか、お部屋の中に、自分の好きな写真を置いたりとか、好きな絵を飾るとか、そういうのもすごく日常なので、「なんでこの手はこの数なんだ?」と、細かいことまでいっぱい訊いてくださいました。また、特別アートが好きだっていうことではなく、近所のおじさんとか、おばさんとか、ちっちゃなお子さんとかが興味をもっているなっていうことが、すごく有り難かったです。
なかえ:分かりました。それで、また今回は、2回目?
MIWA:そうですね、2回目ですね。
なかえ:2回目ということで、考えが変わったりとか、新たにそこに何かを、エッセンスを入れたことはあったんですか?
MIWA:考え方は変わらずです。「祈りの手の曼荼羅」をやるきっかけは、うちの家族が、調子が悪かった時期があって、「ただいま」ってお家の扉を開けた時に、父親の調子が分かるようになって来たんですね。それは、当時、犬を飼ってたんですけど、お父さんが調子が悪いと、犬もぐったりしてて。お母さんもお父さんを心配で、なんか家の全体の空気がちょっと重いというか。という感じで、「あ、今日お父さん調子悪いな」とか、逆に「あ、今日はいい感じだな」とかっていうので、一人の人の気持ち次第で、こんなに家が変わる、一つの空間が変わる、で、また家族が変わる。心は本当にすごいんだなぁって思って。私は、その心を、ポジティブな方にフォーカスして、皆とシェアしたいと思って、「祈りの掌」を撮り始めたんです。それが、みんなの祈りの気持ちが合わさって、一つの曼荼羅になる作品を創りました。それが一番伝えたいことだから、自分はブレずに、という感じです。
なかえ:写真の曼荼羅の手に、実際、自分の手が撮影された方もいらっしゃいますね?
MIWA:そうですね。
なかえ:その方は「被写体となっている自分の手は、曼荼羅の手(祈りの手)になるんだ」と、だんだん身近になっていくわけですよね。そこで、撮っているとき、またその対話で、何かインスピレーションがあったりとか、もしくは伝えていること、もしくは伝えられたこと、印象深いことはありますか?
MIWA:祈り、、、あの、「祈ってください」って(被写体の人に)伝える時に、今まで2歳から92歳ぐらいの方を撮らせて頂いています。その時、実験をするのですが、「じゃあ今から、楽しいことを考えてください」って伝える、次に、ちょっと嫌だなぁとか、疲れたなぁとか、マイナスのことを考えるの実験をするんですね。
すると、身体も変わってくるんですけど、その実験をしたときに、ある人は「楽しいことを考えると、白っぽく、ふわっとする。悲しいことを考えると、沈んでちょっと重くなる。」とか、そういうことが、本当に身体に直に出るっていうことが、皆さん難しいことではなく、誰もが感じる、人間的な、野性的なことなんだなっていうことを、逆に気づかせてもらった感じです。
なかえ:なるほど、分かりました。今回は、参加型の作品って言っていいと思うんですけど、美和さんの心、テーマがある。そういう参加型のアート作りは、なかなかやっぱり少ないこと、だと思うんですね。
MIWA:ふーん。
なかえ:ありがとう。(会場、笑い)SNS、Instagramと呼ばれる、映像、静止画を撮ることによって共感を得るというアートシーンが今ありますけれども、あれはまた作品の中に、とくにテーマはないわけです。本人にはテーマはあったとしても。「テーマ」に共感して「いいね!」をするわけじゃないんですね。
MIWA:うんうん。
なかえ:アートをしている人間が、その場を、もう一歩先のテーマを持っているっていうところを伝えていく、その中で伝わり、お互いが繋がっていくっていうのは、やっぱり今後必要になってくると思います。ですから、続けて頂きたいと思います。
MIWA:ありがとうございます。
なかえ:はい。今回のために打合せをしまして、その時に、美和さんはですね、「美和ワールド」って私が勝手に呼んでいるんですけど、「世界は美しい。3秒に1回は美しいと思う。」と、いう話をされていました。日常を美和さんは切り取るわけですね。どこかのオーロラを観に行って、オーロラを撮っている訳ではないですね。こういう、本当に普段の道端の中で美を見つけているっていうところなんですね。そして、「世界は美しい。」って言い切っているところの心を、ちょっとだけお話頂けますか?
MIWA:単純に、本当に、世界は美しいと思う、、、今日、この中に撮った写真は、ほとんど家の目の前の、ヒマワリだったりとか、本当に自分の生活の中で見る美しさで、あんまり、、その、、当たり前のことだっていうか、本当に日々感動しちゃう。ふふふ。ざっくり。
なかえ:(会場、笑い)終わり?もらっていいの、私?
MIWA:うんうん。ははは。
「希望的な美」世界がフルカラーになった瞬間。
なかえ:あの、美、、、美和さんから呼応された美というのは、「希望的な美」なんですよね。私の中で整理するとですけど。
MIWA:希望的な美?
なかえ:違っていたら違うって言って。
MIWA:うん。(会場、笑い)
なかえ:美なものには、触れたら恐いような美しさもあるし、ぱっと見では気が付かない美もある。そして、今のように、「これ美しいな、輝きだな、共有できた」っていう共感力を引き出す美もある。その中で、私がずっと、美和さんからもらっているメッセージは、「希望」ですよね。美というものを希望として捉えている。だから、ポジティブとして捉えている。美は、皆さんもご存じの通り、例えば、ピカソの「ゲルニカ」のような作品は、絵を観たって、知的好奇心と論理的思考、理性の探究が無い限り、それを美しいとは思えません。あの、後ろにある背景、文化的背景だったりとか、そこに込められた意図を感じることで、人間らしい「情緒」が生まれ、、その情緒によって、人は共感を、さらにする。文化的で、そして知性が働かなきゃいけない美もある。美和さんがもっている美は、そこにふとある素のままのものに、ポジティブな、だから、私が言いたいのは、美を創意していると思うの。創っていると思うの。
MIWA:あぁあぁ。
なかえ:「これが美だよ」ってメッセージを私たちにくださっているんだなっていうことを、すごく思うんですね。もう一歩進んで言うと、そういうメッセージを「送りたい、撮りたい、創意したい」っていうところに、何が根源にあるのか?それは、確かに先程言った、一つの例としてのお父さんの話、犬の話、じゃなくて、もう一歩奥に、何をしていきたいのか?その、美というものを、ポジティブな気持ちになされるための根源みたいなものが、あれば・・。
MIWA:あれば、ね。ははははは(会場、笑い)ええと、写真をそもそもなんで始めたかっていうと、一時期、その、父親のこともあったし、プライベートですごく真っ暗闇の中に住んでいた気持ちになって、モノクロの世界に住んでいたんですね。で、何を観ても、美しいと思えないし、「楽しい」と人が思うはずのことをやっても楽しくないし、「なんでわたしはこんな楽しいことをしても楽しめないんだろう?」って、すごい自分を責めていた時期があって、で、そんな時に写真に出会ったんですね。今まで、私、カメラマンをやる前はデザイナーだったんですけど、そのデザインの仕事で、お洋服のプロモーションで考えてほしいって言われて、グラフィックやってたんですけど、そのグラフィックの宿題みたいな感じで、「じゃあお洋服に物語をつけて、その時に写真を撮ります」っていう風に提案して。その写真も、今まで、使い捨てカメラとか、コンパクトデジカメくらいしかやったことなかったんですけど、あの、上司からちょっと良いカメラを借りて、ファインダーを覗いた瞬間に、リアルに世界がフルカラーになったんですよ。
ファインダーは、ものを見ようとして観るんですね。ただ、眺めるだけではなくて。だから、ものを、心の眼でちゃんと見ようとしたら、目の前全てが美しかった、本当に。フルカラーになって、「あ!全部が美しい!」って思って、今まで私は、ただ眺めていただけで、周りに美しいものを探していた。「これ美しくないから、これを、何か、、」っていう、「探す」みたいな。ではなくて、目の前全てが用意されていて、全てが美しかったって、写真に教わったから、何か本当に、世界は美しいなっていう、ことに尽きるかな。
なかえ:ありがとうございます。あの、発見する、美を発見するっていう言い方をしていいと思うんですけど。まぁ、自分の心理的な状況から脱皮するためにカメラという道具があって、それに出会えたことで美和さんの世界が広がっていくわけなんですけれども、そこで「フルカラーになる」と。フルカラーっていうのはつまり、光があるわけですよね?でも、そこで、だけれども、だけれども、判断はあるわけ。これ撮るか撮らないかの判断は。
MIWA:うんうん。
なかえ:全て、パシャッ、パシャッ、パシャッ、って撮っていくっていうのもアリなんだけど、でも、どこかで判断っていうのはあるんですか?それともないんですか?教えてほしい、すっごく興味がある。
MIWA:歩いてたら、「はっ!はっ!!」ってなる。
なかえ:(会場、笑い)もう、、(笑)話になんないでしょ。(会場、笑い)
MIWA:なんだろうなぁ、輝いて見える、というか。
なかえ:すごい! すごいことだと思う。
写真家MIWAKATOHが共有したいもの
MIWA:1階に飾ってある、女の方が、階段にぼーーっと座っている写真があるんですけど。
なかえ:大好きです。
MIWA:ありがとうございます。あれは、お外で暮らしている方の女性なんですけど、駅降りて、改札抜けた瞬間にその方が座ってらっしゃって、多分きっと、「お家が無いからどうしよう?」みたいな感じで座ってらっしゃったのかもしれないんですけど、私はその人にお会いした瞬間に、「あぁ、なんて綺麗なんだろう」って、すごい思っちゃって。その方の秀美、秀美っていうか、顔がどうのっていうよりも、その方の存在そのものが、なんか光って見えたっていうか。だから、一見したら、こういう日本人のチャラチャラした観光客が、見逃すにはもったいないくらい、すごい美しくって、一回撮らないで立ち去ったんですけれど、影を消して撮りまして・・。
なかえ:うん、ありがとうございます。その写真すごくいいんですよ。階段の脇に、こう、少し、50代ぐらいかな?ホームレスかどうかは私には分からなかったんですね、写真からは読み取れなかった。だけれども、こう、項垂れて佇んでいる。何かこう、哀愁を帯びている様相が見える。
MIWA:うん。
なかえ:で、(シャッターを)切ったんだなって。私は、そこに、(写真に関わる)物語を読もうとするわけです。読めれば読める程、(今のように)ご説明があればある程、そこに共感が生まれて、ぱっと見た時の美しさよりもより深く、私たちは共感をするんですね。例えば、今日の朝、私も仲見世を通って、(浅草寺に)お参りをしてからこちらに参ったわけですね。でも、そこで、「あぁ、綺麗だなぁ。あそこの風景いいなぁ。」だけでも、私たちは、「救われた気分」になるんですね。美しいものを観たときっていうのは。だけど、その裏に、「ここは、こういうために、この人たちの願いを叶えるものに、(お寺や神社、石碑は)作られたんだよ。」っていうのを知った時に、違う情感が生まれてきて、さらにもう一回、我々は感動するの。で、それが、「美の再発見」。
MIWA:うんうん。
なかえ:で、人間の精神的価値判断、「真善美(しんぜんび)」と呼ばれるものが、ありますよね。その中で、美というのは、判断美、判断基準、審美、審美眼ですね。美を審査する、審判する、判断をしていくっていうこと。
もともとの自然美っていうのは「自然美」って呼ばれています。「自然」がつきます。それは例えば、生まれたばかりの孔雀の子どもも、既に美しいじゃないですか。そういうのは自然美っていいます。そこから、朽ちていくのに、べろべろになっていくのに、美しさを見いだせることが、人間の素晴らしさで、人間の価値だと思ってます、、だからこそ、美和さんにアーティストとして、伝えていってほしいのは、リクエストなんですけれども、なんでそれが美しいのか?っていうことを、伝えていってほしいんです。
MIWA:うんうん。
後半に続く