対談 「ことば から うたへ」後編
(前編より続く)
佐:大丈夫、大丈夫。(笑)
な:死んだ人の声を聴きたいとか、その人に言いたいとか、死んだ人に声をかけたい時に、いきなり話せないですよね? 「ねぇねぇ」って、いきなりは話せない・・・だから、呼びかけます。
その、呼びかける時の「音」というのは・・・教えていただきたいのですが、共通した声や音はありますか?
佐:ええ。普段とは違うトーンになる、ということを前提にした上でですが、声が高くなります。
それは一つ、言えると思いますね。 例えば、西洋のオペラなんかでも、気分が盛り上がってきて、ものすごい感情が高ぶって、もうこれ以上表現できないと、マックスぐらいの高ぶりの時に、ソプラノ歌手は高い音出しますよね? それは、遠くから聴いていたら、何を歌っているか、よく分からないと思いますが、でも、気持ちが盛り上がって、何かもう大変な場面になっている、というのは、音の高さで分かるわけです。
なので、今の場面でも、いきなり私が、「(高い声で)あの~、とっても良かったですね、今日はね」っていう話をすると、皆さんは、「果たして、私たちに話しかけてくれているのかな?この人。」という風に思うわけですよ。(笑) 「佐藤さんは今、別なところと話しているのかな?」と。
お客様:(笑)
佐:今、笑ってらっしゃいますけれども、声の低い高いで、ここまで表現が出来ます。
もちろん、低い場面も、ありますけれども、これやっぱりその、今普通に話している声の幅というのを、我々暗黙のうちに了解している訳です。 それを越えるのが、パフォーマンスの表現ですし、・・・先程、劇中で、音楽劇の中では、普通に語りをしている場面と、それから、音をつけて、節をつけていくということで、我々の耳に届くメッセージは、全然違うものなりますよね。 それはもちろん、計算していると思いますけれども、そういうことだと思う訳です。
な:面白いなぁ。あと・・・・話したい事があったのに、忘れてしまった、汗とともに流れていった・・・
佐:うたですよ。
な:うた? だったかな?
佐:うたと鬼と。
な:そうだ! ええとね、(劇中の演出で)何をしていたかって、一つだけ伝えたい。
種明かしして、良いのか分からないですが、最後のシーン。
私が舞って、群声が「うわんうわん」と、言っているところ・・・群声のコーラスが、「わーーー」って声をね、のんびり出しているところ、あそこのお話を・・・あれは、群声のみんなに、こう伝えたんです。
「自分を整える音を、自ら出して」と、伝えたんですね。
だから、低音で「おぉーーっ」て、出しているところは、それこそ瞑想を今やってる、音で自分を整えるってうのかな、芝居の中でそういうことを、ちょっとやりたかった。
音って・・・忘我になる。
何というのか、言葉とか、ポーズとかね、それこそ、ヨガでもそうですが、ヨガの境地というのは、音楽と一緒にあるのです。
精神文化の中で欠けてはいけない「音」そのものは・・・言霊には節が付いてきて、メロディアスな調子が、異空間、日常から抜ける空間を作るわけですね。
その時に、私たちの精神、もしくは身体に、影響を与えます。
でも、その音、自分自身に影響を与える音を私たちは固有に持っていないと思うんですよ。
繊細な繊細な・・・音、ジャンジャンジャジャーンジャンでなく、もっと内的な音。
コーラスの皆には、観想、内観想、中を観るという意味の、「観想を自分でその場でして欲しい。お客さんがいることを忘れていいから、観想して、自分を整えて」っていう風に伝えたんですね。
実際に行なうと、本人たちが「気持ちいい」って言いました。 今回は「ヒーリングコンサート」ですが、音で癒すっていう、そこに原点を、もっていきたい。
佐:いいと思いますね さっきあの、音を整えるというか、最後のあの場面というか、締めになった時に、倍音が聞こえたんですけど、
な:おっと、やった!
佐:あれ誰の音ですかね?
な:誰の音というのは・・・倍音というのは・・・
佐:そうそう、
な:倍音というのは、共鳴した、次のオクターブ上が鳴ることです。
佐:倍音がちらちら聞こえて、これはいい空間だなというふうに、個人的には思ったんですけど。 他に気がついた人いますか? モンゴルのホーミーみたいなのが。 だから、思わず、一人でやっているのかなと思ったけど、皆だったのですね。
な:みんな。皆、やってました。
佐:やはり、「本当に癒しの、音の世界ができたんだな」と・・・おっ!と思いました。
な:嬉しいです。
佐:能の舞台でも、謡いとか何か、ありましたよね?古典で。 そういうものが感じられました。
な:そうですか。能はもともと、仏教の教えが入ったものですが、能の作品には、今でいう呪文と呼ばれる、真言と言われるものが入っています。
『たぐる』は、能楽『安達が原』、『黒塚』をベースにして、書かれていますが、そこにも大日如来とか、薬師如来のうんたらかんたら、という呪文が入っています。 そういう風に、能は本来、鎮魂するっていう意味で、作られています。
佐:やっぱり、生者と死者の関わりが、一つの物語りになっているということですよね?
『たぐる』では、笛、リコーダーのアルトとテノールとありましたが、能楽では、篠笛と能管とありますよね? そんなような、高低のような感じのね、楽器も。 あとはその、打楽器ですよね。鼓とか、そのような感じがしましたけれども。
な:嬉しいです、ありがとうございます。
佐:あとはその、自分の音を確認するという時に、その、自分の音というのは、一つは呼吸ですが、呼吸は、ヨガとか、他の宗教伝統でも、まずは呼吸を整えましょうと。
そこに出る音を意識することはできると思います。 もっと簡単にできる、日常、私、自分がやっている一つの実践ですが・・・歩いている時に、自分の足の音を確認する、という、それだけで随分違いますし、半ば本気、半ばおふざけでやるのは、自分一人で歩いていて、通りからすっと別の人が出てきた時に、足音が混じるわけですよ。 で、混じった時に、まぁ、第三者はいないわけですが、「もしこれで、あの歩いている人と私が足音でセッションしたらどうなのかな?」っていうようなことを、時々私やります。
な:面白い。
佐:次がポイントです。相手の音を聴くと、合わせる、が出てきます。
実はその、自分の音を聴いて、相手の音を聴くことができれば、今度はセッションができるわけですよね? 一緒に横を歩くとき、相手の足音とか、相手の出している音を感じる・・・あるのは、思いの方が先に大事にされている場合が多いのですが、同時に、出す行為とか、音とか、行為することによる結果そのもの含めた歩み寄りと言うのでしょうか・・・
な:そうなんですよね。
佐:お互いのコラボレーションが大事。
で、我々は、日本人と言ってしまうとあれだけど、日本文化は、思いを大事にする文化だって、それはとってもいいと思いますが、「そんなこと思ってたって、お前、やんないとだめだよ?」っていう時代に、もう来ていると思います。 思っている、皆、思っている。 じゃあそれ、どう出していくのか?
出さなきゃ終わりだっていう状態になっているのが、今だと思うので、思うのも大事ですけれども、それがどういう風な結果をもたらすのか、っていうところが、さっき言った、音だし、声だし、歩みっていうのが、必要だと思います。
な:演劇の話で言うと、声で出しちゃえば、その音だし、そうなります。
佐:なるほどね。音から。
な:音から来るものが、とってもあります。 音から、身体もできるけど、音から感情、中がつくられるのが、非常にあります。
だから、私も、先生と一緒に言うなら、やっちゃえよ!って思います。出しちゃえ!って思います。 そこに、やっちゃえば行動も感情もついてくる。
佐:そうですよね。 私は授業で、いつもギターを弾き、ブルースうたったりします。
それはもう、本当に即興で、学生さんたちに、今日の気分を教えてって、黒板にバーッと書いて、それに簡単なコードをつけてうたっています。
歌は、一人の思いですが、表に出すと、それを共有する場ができます。実は一人の思いなんだけれども、出したら共有されて、一人の世界が、一人のものじゃなくなってくるっていう体験を、我々、音とかリズムとか、うたとか、言葉でできるようになってくると、もっともっとその、専門家だけじゃなくて、こういう場を通して取り戻したり、作っていけたらなと思っています。
な:お話ありがとうございました。 また対談の機会を持たせていただきたいと思います。 本当にありがとうございました。
前編はこちらです。