対談 「ことば から うたへ」前編
2016年5月22日(日) 於 ギャラリー鶉
昼の部 第三部 シアタートーク「ことば から うたへ」
宗教人類学者 佐藤壮広 × 脚本・演出 なかええみ
なかえ:あ、忘れ物しちゃった。先生、しゃべってて、しゃべってて。(席を外す)
佐藤:宗教人類学の、しゃべってろと言われたから(笑)、佐藤です。よろしくお願いします。
終わった後、すぐに話をするというのは、いいのか悪いのか、両方あると思うのですが、皆さんそれぞれ感じ方等があると思いますので、それを大事にしながら、お話しする仕掛けになる事ができれば、と思っています。(なかえ、戻ってくる)
今一番切り替わるのが大変なのは、なかえさんだと思います・・・、
な:大丈夫です。いつでも大丈夫です。
佐:その辺は、役者ですね。素人は無理です。
な:大丈夫です。お待たせ致しました。すみません。改めまして、今日は、ご来場ありがとうございました。
早速ですが・・・何かお言葉をもらえますか?
佐:やっぱり、「鬼」ですよね。
な:鬼。はい。
佐:鬼を観ながら、我々は、「鬼も捨てたものじゃない」というような解釈と、「やっぱり鬼って危ういのではないか」と、いう両者に揺れ動きながら、作品と一緒に進んできました。
一番いいのは、結論が出るようで出ないのが、鬼にとって優しいなということです。
その辺に対して、演出、作家の、えみさんが込めた思いなどを伺えますか?
モチーフを鬼にしたのはなぜですか?
な:モチーフを鬼にした・・・はい。願い続けたら、いつの間にか、自分がいいと思っていたことが、悪になっているということが、良くあると思うのですが・・
例えば、テロリストの方たちは、本来は「良き場」にしたいという純粋な気持ちを持っていた。しかし、いつの間にか、それが過激になり、「悪の仕業」と呼ばれる程になっています。
でもテロリストの中では、なぜか「祈りの場」がいつも保たれていて、祈りが強ければ強い程、凶悪なものとして襲いかかる。・・・魔、悪・・・悪と言って良いのならば、悪がすごく大きなものになっている。
で、私たちは、それを目の当たりに見える様になった。インターネットのおかげですけれど。
知識ではなく、視野がインターネットのおかげで拡がりましたよね?
だから、これまでの身近な鬼は、意外とお母ちゃんだったり、裏表のあるお母ちゃんだったり、先生だったり、世間体だったりしたのですが、・・・
佐:まぁ、学生も時々私のことを鬼と呼びますけどね。(笑)
な:ですよね。(笑)
佐:成績つけが近くなったりすると。(笑)
な:うんうん、そういう鬼だったけれども、生死にかかわるところの鬼が、インターネット等のおかげで身近に見えてきて、どんどんと「鬼」が私に蓄積されて、出てきた、それがモチーフになった訳です。
佐:思いを出す時の一つの形としての鬼、という風に考えてもいい?
な:もちろん、そうです。
佐:鬼の研究というと民俗学の分野になります。
馬場あき子さんという、歌人で評論家の方の『鬼の研究』という本があります。
それがまさに、今日の作品世界の一つの大きな解釈のポイントになると思います。
娘のお面、あれは、小面(こおもて)ですよね?
な:はい
佐:娘のかわいらしさがある面、そのつるつるしたお面の裏には、般若が隠れている訳です。
な:はい。
佐:「般若が隠れていることを合わせて、お面のことを理解しなければいけない」、という風に切り込んだのが、馬場あき子さんの『鬼の研究』です。
彼女は、「大事なのことは、両面があることを理解した上で、仮面というものを考える必要がある」、という風なことを言うのです。
それは逆に言うと、角(つの)が立っているからと言って、そのお面が、裏もそうなのかと言ったら決してそうではないという解釈にもなります。
鬼と言っても、今日の作品にあったように、揺れ動いたり、自分のことをもう一回振り返って反省したりというものが見えてきます。
少年もの、童謡や日本の昔話で、鬼の話はよく出てくるので、「いい鬼もいれば、悪い鬼もいる」というのが、実は、日本人、日本の社会で育っていきますと、多少いい形で蓄積します。
知識としても、実感としても、蓄積されます。
それが、一面化してしまうのが、70年代、80年代以降の日本の状況であったり、世界の状況であるということがある。
鬼にもいろんな面があって、今はその悪の面がものすごく出てきてしまっているということを踏まえた上で捉えなおす・・・それは、鬼の面であって、ぱっと内側を見たら、彼らも人間だっていうところは忘れずに、というように・・・。
おそらく・・・、例えば、テロリストならテロリストと、交渉していく・・・強引に繋げようとしたら、そこから出ている糸をきちんと「たぐる」、ということが必要かと思いますね・・・その糸が見出せないので、スパッと切ってしまって、「鬼はもう要らない」と、全員が考えてしまったら、おしまい、という世界になってしまうのは、簡単ではないはずです。
今日、観せていただいてそう感じました。
皆さんどう思われますか?
例えば・・・鬼がこう座っていると(娘の真似をする)・・・、観ている方も、女の子に見えましたよね。すごくかわいかったです。
な:(お客様に)皆さん、いつでも参加してきてください。
では、ええと・・・「背守り」、皆さん、ご存知の方はいらっしゃいますか?背守りのことを・・・。
(古い男児の祝い着を見せながら)これが、私物ですが、お祝い着、祝い着です。
これが、先ほどの作品で出てきた「守り糸」と呼ばれるものです。
素敵な、お着物で、もう本当に古いものです。
こういう風に、背中中央に糸を縫い付けてある、右に、左にと、地方によって、いろいろと縫い方は違うらしいのですが、母が縫い付けたのです。
祈りの文化があった・・・願いの文化というか。
背中に、魔はやって来きます・・・風邪もここから入ります。
「通りゃんせ通りゃんせ」と、道に迷ってしまった時に、魔が後ろからやってきて、こどもに手をかけます・・・そのとき、背中に縫い付けられている守り糸を、魔はすっと抜きます。勢いあまって鬼は転んでしまう・・・その間にこどもは逃げて助かる・・・助かればいい・・・というような願いが込められた守り糸です。
それで、さっき劇中で娘が鬼になってしまったものは、お兄ちゃんの背守り糸を探していたのです。
迷い道に、裏道に、糸が絶対に落ちている。
それを手がかりに、娘は「お母さんも、たぐり寄せたい」、というお話だったのですけれど・・・。
こういう願いの文化というか、祈りの文化というものがですね、あったということを・・・ええと、あ、すみません、ずっと話してしまいました。
佐:いえいえ。
な:(着物を見せながら)前衣にもあるんです。ここです。全部手縫いで、ここにも縫って、こどもの命を守る。
祈りの文化についてなにかありますか?
佐:祈りの文化ですか?
な:唐突過ぎますか?
佐:いや、全然、大丈夫です。
祈りにも何種類かあると思います。
願って叶いそうな祈りとか、「だったらいいなぁ」と思って心に思うことと別に、もっと広く、「こういう世界であったらいいな」、や「〜であって欲しい」、また、「こうであったらいいな」という、いくつかの層があると思います。
やはり、その、一番身近な祈りは、家族の無事とか、亡くなっても、その亡くなった先で、あの世か天国かは分かりませんけれども、そこでもやっぱり無事であってほしいという思いで、供養したり、お線香あげたりする・・・人類始まって以来、そういうことが起こっている。
先祖崇拝って言葉を使わなくても、やっぱりその、家族写真残したりとか、お墓を作ったりという文化があります。
だから、「いないけれどいる」っていうような思いの中に、実は祈りの言葉は出てくる・・・あと、もう一つ、私が今見せていただいたお話と繋げるとしますと、今日のキーワードは多分、「うた」にもなってくると思います。
「うた」を学問的に整理することの補助線の一つとして・・・。東京芸術大学の民族音楽ゼミナールを、日本で最初に作った、小泉文夫(こいずみふみお)さんという、民族音楽学者がいらしゃいます。
彼は世界中をフィールドワークした方です。彼が音楽の、うたの文化を集めて出した、非常に大きな結論ですが、「うたというのは大きく分けて二つありますよ」と言っています。
一つはラブソング。
もう一つは、亡くなった人へのレクイエム。今日出ていましたね?
この理由に、共通していることがあります。
それが何か、皆さん、お分かりになりますか?
ラブソングと鎮魂歌が、全世界共通している「うた」なのですが、さて、それは、なぜでしょう?
この二つに共通することは、何でしょうか?
女性のお客様:「愛」?
佐:そうですね、相手に対する思いとか、愛情とか、それが前提になりますが・・、もう一つ共通していることなのです。・・・・、目の前にいてほしいけど、なかなかいてくれないって時に、ラブソングが出てくる、と。
つまり動物学的とか、社会学的に言うと、目の前に好きな人がいたら、うたなんか歌っている場合じゃなくて、手を握ったり、ハグしたり、ぐいっとすればいい訳です。
「いてほしいけれども「いない」、という時に、♪お前のことが好きなんだ~とか、伝えたいけれども伝わらない、その時にうたが出てくる」と、小泉文夫さんが言っています。
抽象的な言葉で言い換えると、「不在の他者」、そこにいない誰かに向けてのコミュニケーションがうたの発生だ、というような整理があります。
何とか表現したい、伝えたい、といった時に唱われる、お経、声明(しょうみょう)、それから、レクイエム、鎮魂歌・・・いろんな国での「挽歌」があります。
亡くなった人への挽歌、「うた」が出てくると考えますと、「うた」というのが、生きている人たちだけではなくて、そうではない人たちを含めたコミュニケーションの一つの道具というように理解できるのではないかと思います。
男性のお客様:いのちを繋ぐ、という生物の本能は? DNAに根ざしているもの。
佐:動物学的には整理できまして、共同で生活する動物、猿も、哺乳類が主になりますが、仲間をつくって、狩りをしたり、仲間をつくって共同生活する動物は、自分の仲間が死んだ時に、やはり、人間のように、悲しいっていう感情が発生するらしいのです。
だから、猿もレクイエムを唱う、というところまでは、なかなか研究はありませんが、でも、社会的な動物としての我々が、仲間がいなくなった時に、いなくなったということを認めるその一歩手前で、「さみしいな、辛いな、悲しいな、あいつどこいったんだ?」と、いうようなことが、「♪どこいった?あいつ?」というように歌になっていった、と解釈はできるのではないかと考えます。
いのちを繋ぐということ、プラス、いなくなった人たち、仲間、個体に対する思いというのが、うたになるっていうことではないか。
うたを歌う鳥とか、動物とかも、いろいろ研究されてます。
な:うたって、みんな歌うじゃないですか。
佐:みんなうたいますか?
な:(観客に)うたってるよね?うたってますよ〜。うたうじゃないですか。(笑)
いなくなったものに対しての、レクイエムっていう意味の、宗教的なうたっていうのは、ある種の、ビジョン化をさせるでしょ?
あ、いけない、話し、飛んじゃいました?
佐:いや、大丈夫です。
な:私の拙い話しを補足してもらっていいですか?
祭典とか、祭礼とか・・・その・・・えー・・・
佐:なるほど。歌った先に、相手がいるとしたら、その相手が、どこに、今どんな状態でという意味では、想像させる一つのきっかけですよね?
な:テーマが「ことば から うたへ」ですけど、思いがあって、思いだけ、言えばいいじゃない?本当は。
「私の前にいてよ」をうたにするには・・・・ええと、なんというか、・・・「このフレーズはこういう音、この音色だな?」っていうのが、あると思うのです。
私、作曲をさせて頂いていた時に、あれ?「させて頂く」って、自分がやる訳ですけど、作曲している時に、ここはこういう音、また、こういう重さが音に欲しい、など、・・・そういう風にして、言葉が後の時もある訳ですよ。音色が先というか・・・。
でも、言いたいことはある、というのはある訳ですけど。
佐:ちょっとあの、今、いみじくも、言い間違いですかね、言い間違えじゃないと思うのですけれど、「作曲させて頂く」、という言葉はまさに、音を自分で創るというよりも、降りてくるとか、そこに広がっているものを、ザーーッと取り敢えず拾ってみるというようなことを、今、多分、えみさんは表したなって思っている訳ではないか、なのです。
我々はその、ほら、悪しき心理学主義と言いますか、悪しき近代主義だと、自分の思いがあって、言葉、というように考えていますけれども、多分そうじゃない。
ものをつくったりする人は、そうではない経験をよくしていると思います。
「気が付いたらこんなものができた・・・、作ったのは私だけど、でもそれ、私がつくったもの、という言葉よりも、自分を越えて、その作品の世界が、今ここにありますよ」、というような体験がいろいろとあると思います。 そこを多分、我々日常生活でも、とても大事にできたらないいなと、私自身、教育をする上でも思っています。
何としてもでも、わたし、わたし、と思っていると、行きつく先は、社会問題でいうと、結局、「お前の行為はお前の責任だ」、ということで自己責任論になっていきますし、止むに止まれずそういう風な状況になったということを、その人の、社会的背景とか、社会状況とか、それから歴史とか、それぞれの年齢を含めてですけれども、そういったものを含めて理解するという意味でも、その人に、全て責任がある、その人が、作り手が第一の主体だっていう考えは、作品論は、学者がよく言うのですが、作品と作者っていうような分け方をする時には、議論する上では仕方が無いのですけれども、私自身はもう少し、広く、作品とつくった人のダイナミックな関係というのを捉えたほうが、その作品を大事にすることに繋がるのではないかと思っています。なので・・・
な:(うなずく)
佐:なので、ことばも、自分で発しているようでいながら、時々自分を越えていくことがあるわけですよね。
こんなところで言うのもなんですけれど、普段おしゃべりしている時とは、違う声が出るいくつかのモーメントがあります、それは・・・夜に発する我々の声というのは、違うわけでして、それは、相手との関係の中で出てくる一つの発声なわけです。
あれ、声なのか、音なのか分かりませんけれども、それによって自分の気持ちが乗ったりします。
普段、届かない相手に、気持ちが届くことがあると意識して、声が出ている、ということも言えるわけです。
そういう風に考えていくと、我々も場所をみながら、声の出し方を常に考えてます。
声を一つとってみても、「自分のこと」、それから、「相手のこと」を我々が考える、一つのきっかけになると思いますね。
それに、「あ」、となって、「た」、となって、「し」、が出てくれば、「あたし」という言葉になって、それは一人称で、あなた自身のことを指しているという意味がありますけれども。
な:あの〜、ね、生きている人はそうじゃないですか。
レクイエムのお話がありましたけど、死んだものと、会話する、死んだ人と会話する時の、
佐:会話する時の?何が、何が?
な:ええと、だから、死んだ人に出てきてほしいとか・・・ええと、いけない話しをしてますか?(笑)